2011年02月08日 八百長
_ 分類、排除
今朝、ラジオ ニッポン放送を聴いていたら、アナウンサー(かきはなただし氏)が両国の自転車屋さんのおばあさんに聞いた話を紹介していた。
八百長でゆれる相撲界、自転車屋さんに顔を出していた若い力士も八百長をやったとされる1人で、子どもが生まれて間もない、礼儀正しい人とのこと。
「もう相撲界には残れないだろうけど、この先どうするのか。」と おばあさんが心配げに話していたとのことだった。
身近にいる人の感想。なんだか切なくなる話だ。
相撲界という集団の中で、その力士がどういう立ち位置に置かれたのか、あるいは選択したのか、いろんな要素が絡み合っての、結果としての八百長だろうと思う。
報道で「まじめに一生懸命やっている力士も疑いの目でみられてしまい気の毒だ。」といったコメントを聞く。
それはそうなのだが、否定はできないのだが、しかし、「まじめグループ」と「八百長グループ」を明確に分類できるものなのだろうか、そんなに はっきり分けられないのでは?という感想が残る。
もちろん、先のコメントも明確に二分できるとの前提で語っているわけではないだろうと思う。
限られた報道番組の時間で、「ああでもない、こうでもない」と煮えきらないことをいっていたのでは格好がつかない。
「相撲界全体としてどう責任を果たすのか」
「アンケート調査では実態が把握できない。もっと強制力ある調査を」
「過去には封印して現在表面化していることだけで終わらせようとしている。それでいいのか」……
そうした批判は、もっともだと思うのだが、なら、どんな解決策が妥当なのか、私には考えを進めるためのこれといった基盤がない。
ただ、思い出した図書がある。
「あたりまえ」を疑う社会学 〜 質的調査のセンス(好井 裕明著、2006年2月)
マイノリティを社会の「異質」として排除したり、「自分とは関係ないもの」として客観的に捉えたりするのでなく、そこに入り込んで、そこにいる人たちの目線で見たらどうなるかを知ろうとする。社会調査の手法として、そうした姿勢が大事なのではないか。そんな趣旨が根底に流れている本だったと思う。
そうした調査を通して、自分がどっぷりつかっている「あたりまえ」を見直し、自らの居場所を再確認する。「異質」と思っていたものと自分の居場所との連続したつながりも考える。そんな意味合いもあったと思う。
2、3年前に読んだが、強く印象に残っている本の1冊。
しかし、八百長問題やら何やらの現実の社会減少を見る時に、その本をどう手がかりにしたらいいのか、私には分かっていない。ふがいないと思うが、それが正直なところ。
精進が足りない、煮えきらないのが私だ。