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ジタバタ日記


2011年07月13日 無謬性、障害認定

_ 無謬性を前提にしたもののこわさ

原子力発電の関係で、その安全をチェックする機関が、原発を推進する行政からきちんと独立していないことが課題とされている。チェック機関が推進機関と同じ指向にあるとすれば、妥当なチェックが行われない可能性が高い、というわけだ。

これに類することは少なくない。例えば、障害者手帳取得時の障害認定。特に全国統一基準が定められていない知的障害者の認定にはそもそも難しさが伴うが、その難しさを別としても、ゆがんだ認定があるように思う。

サービス提供に責任を持つのも行政なら、障害認定を行うのも行政。ここにどのような背景力学が働くか、想像は容易だ。

障害が軽いほどサービス提供の程度は少なくて済む。厳しい財政の下、お金のかかることをなるべく避けるためには認定を軽めにすればよい。

といっても、行政があからさまに実態からかけ離れて軽度判定を行うと言いたいわけではない。しかし、僅かな差で軽度と中度、中度と重度が分かれることがある。そのような時に背景力学が働かないとは限らない。

文字を声に出して読むことができても、その意味を理解できない人がいるとする。表面的な短時間のテストで「読めるのだから軽い。」と判定されてしまうと、実態をちゃんと反映しない認定になってしまう。

「判定に当たる専門家なら、表面だけでなく実態を見ようとするはずだ。」と考えるのは甘いというのが私の感想。

そして、こわいのは、判定に不服な時は再判定を申請できるが、基本的には行政が指定する同じ機関に再判定してもらわなければならない点。そんな仕組みで問題が解決すると考えるほうがどうかしている。しかし、現行制度はそんな形になっている。

障害者やその家族にとっては、出口のないところに閉じこめられた強い閉息感におそわれる。更には諦観。

医療の分野でセカンドオピニオンが言われるように、行政から独立した医療機関で判定してもらえる道が残されていれば違ってくる。

判定機関のスタッフの中には、「障害者やその家族は、なるべく多くのサービスを提供してもらいたくて、実態より重い判定をしてもらいたがる。わがままなものだ。」との不信感を持って(いわば予断を持って)判定する人がいると聞く。

「なるべく軽く判定するのが私の使命だ」と言わんばかりの態度を示す人もいると聞く。

もちろん、そんな人はごく一部かもしれないが、そんな人に当たってしまった人が救済されるような制度・体制がちゃんと担保されていることが大事。

「行政は誤りをおかさない」という無謬性を前提にした制度は、実にこわい。

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